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 暫くして目隠しが外れた。眼が隠れているのと否とでは、だいぶ印象が変わる。彼女の眼は透き通っていて、まるで精巧なガラス細工のようだった。それだけに感情が瞳に移ろい易く、私が彼女に初めて会ったときに抱いた、凪いだ湖面のような表情は、もう現れなくなっていた。

 私は彼女に意思表示してもらう為、紙と万年筆を用意した。彼女が初めて書いた言葉は〝御免なさい〟だった。私はそれを見て、仕事ですから、と言ったような気がする。罪悪感で死にたくなった。

 彼女は私とチェスをしようと云った。私はチェスをしたことがありません、と云うと彼女もまた、したことがないと云った。ルールは本で学んだようで、私に熱心にルールを説明していた。私はルールより、彼女の書く美しい字とその白い腕にばかり目が行っていて、ルールを理解するのになかなか時間がかかった。

 それからしばらく経って、チェスの勝敗が十勝十敗になったころ。彼女の声が発せられるようになった。彼女の声もまた、彼女の印象をガラリと変えるものだった。彼女の声には凛とした張りがあり、それは何処となく清末家の血統を感じさせるものだった。しかし彼女は口数が少なく、自ら声を発することは極力しなかった。なかなか会話の糸口が掴めず。私が話しかける一辺倒になった。

 

 私は彼女と一日中ずっと一緒に過ごす。朝起きるときも、夜寝る時も。特に夜は、私にとって劇的な変化が訪れた。彼女と布団を並べて床に入る。以前は使用人用の薄い布団だったが、今ではお嬢様と同じふかふかのお布団で眠りにつける。当然ながら腰の痛みに苦しむこともない、私はこの時、お嬢様の世話をするこの仕事を、少し気に入り始めていた。

 それから暫くして彼女のお腹の抜糸が済んで、お風呂も一緒になった。初めは私と一緒に入ることを強く拒んでいた。しかし一人でお風呂に入って、転んでしまった彼女は泣く泣く私と入ることに了承した。それでも最初は、タオルを体に巻いてお自らの躰を見せまいとした。それではお嬢様の体が洗えませんよと云うと、主人に甘える子犬のような顔を私に見せた。そんな表情をしても駄目ですよとさらに云うと、瞳を悲しい色に染めた。この頃になるとコロコロ変わる彼女の瞳の色に、私はささやかな楽しみを感じていた。

 彼女とお風呂を共にしてからは、会話も弾むようになった。と言っても、私が彼女に質問し、それに彼女が答えるという形にあまり変化は無かったけれど。どんな花が好きかと訊くと、花は写真と絵でしか見たことがない、と云う。私は庭に生えている花を摘んできて、彼女に見せる。すると彼女は、それこそ花が咲くような笑顔を見せて喜んだ。

 

 その日は十五夜だったと思う。屋敷の縁側で二人して月明かりを浴びていたとき、私は彼女に云った。私ばかりが質問していてずるいです、お嬢様も何か私には興味が無いのですか、と。すると彼女はしばらく押し黙った後、悩みに悩んだ挙句、私に真剣な面持ちで尋ねた。家族は今、どこで何をしているのか、と。

 私は、はっとした。この時まで完全に忘れていたのだ。清末家の使用人となって毎日床を拭いていた頃ならいざ知らず、お嬢様のお世話をするようになって余裕が生まれていた私には、家族を思う時間はあったはずだ。しかし、私はお嬢様との生活の中で一片たりとも家族のことを思い起こすことはなかった。そして家族を思う気持ちも、今ではもう完全に消失していた。私は彼女に家族のことを正直に話した。

 

 私はお嬢様のように、代々続く家系の娘として生まれました。ここに来る前は、華道に茶道、書道にお琴と諸芸を一通り習ってきましたし、すくなくとも下女になるような低い身分の者ではありませんでした。けれどそんな日常は一日で崩れ去ってしまいました。なぜなら私には一族を除籍された叔父がいました。彼は私たち一族を恨んでいて、一族の者を皆刀で切り殺した後、家に火を放ちました。私は父と母、そして妹、私を除く一族の全員を一夜にして失いました。それから私は、昔から一族が親身にしていた清末家に貰われたのです。

 

 私はこの話を無感情に、あたかも歴史人物の身の上話でも語るかのように淡々と語った。なぜかもう、あの時の悲しみが色褪せてしまった私には、自らの体験なのに、その記憶と、私の心を同居させて語ることはできなかったからだ。

 しかし彼女は違った。まるで自分が体験したかのように悲しみ、顔を苦痛で歪ませた。目に涙を浮かべ、辛かったでしょう、苦しかったでしょうと私を優しく抱きしめた。するとそれまで何も浮かばなかった私の心に、強い感情の波が襲った。私は彼女に寄りかかり子供のように声を上げて泣いた。彼女は私が以前したように、背中を擦って、よしよし、と。私は失っていた感情を一年ぶりに取り戻した気がした。その日は涙が枯れるまで、二人して抱き合って泣いた。

 そんな日があって数日が経ったある日の夜、それは大事な儀式の前日だった覚えがある。私は彼女の悲鳴で目が覚めた。彼女は布団の中で丸くなって、ひたすら何かに怯えるように震えていた。〝怖い、怖い、助けて、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい〟ずっとそんな言葉を繰り返していた。私は震える彼女を、力の限り強く抱いて、耳元でずっと「大丈夫、大丈夫だから」と囁いた。すると彼女の震えはやがて小さくなり、静かに寝息を立て始めた。その日の夜は二人一緒の布団で寝た。

 彼女が何に怯え、誰に助けを求めていたのか、このときの私はまだ知るよしもなかった。

 翌日の彼女の顔は酷いものだった。髪は寝癖でぐちゃぐちゃ、目の下にはくっきりと隈が表れていた。朝起きた彼女は鏡を見て小さな悲鳴を上げた。今日はお祖母様の大事な儀式だから髪の毛を直してほしいと必死に懇願してきた。そんな彼女を見て私は笑った。彼女もまた笑っている私を見て、頬を膨らませてむくれた後、クスッと笑った。彼女の髪を梳き、薄く化粧をして隈を隠し、車椅子に乗せる。そうしてすべての身支度を済ますと彼女はポツリと言った。これは、私が私でいられる為に必要なことなの、と。私は真意を測りかねて彼女に、何か、と尋ねるた。彼女はううん、なんでもないのよと応えて微笑んだ。彼女はその笑顔のまま、儀式に行ってくるからと、貴女にはここで待っていて欲しい、と云ってご当主様の元へ向かった。しかしその笑顔には、どこか物悲しい雰囲気を纏っていた。

 

 私は所詮下女であるから、そういった儀式や式典、宴に呼ばれることなどないと思っていた。しかしその日は違った。彼女がお祖母様の元へ向かったあと、暫くして私は呼ばれた。呼ばれた先に向かうとお嬢様が手術台の上で苦悶の表情を浮かべたまま失神していた。ご当主様専属の執事は、しばらくすれば目も覚めるだろう、そうしたら自室へ連れていってくれ、と私を一瞥するとにべもなく言った。私はその男を強く睨み付け、彼女に駆け寄り抱き寄せた。彼女の気が付くと、まるで魂を抜かれたようにぐったりと私にもたれかかり、私にこういうのだった。〝ごめんなさいお母様、ごめんなさいお祖母様、今日も出来なかった、弱い私でごめんなさい〟と。

 それを聞いた私はその健気さに胸がどうしようもなく締め付けらて、苦しくなった。

SIDE STORY

 

『使用人鈴の心情』

     ——私は十のとき使用人として清末家に貰われた

 

 

 使用人としての毎日は、十の小娘にはつらいものがあった。

 毎朝三時に起きる。寝床を片付けるとすぐに朝食の支度にとりかかる。それが済むと屋敷の掃除が始まる。朝食は時間がなく粥をすする程度のものが常だった。

 まだ小さかった私は床の掃除を任された。他の使用人は皆大人で、壁や天井、箪笥の上を掃除した。背の低い子供が床を拭く方が理に適っている、というのが訳だった。私にはそれは単に嫌な仕事を押し付けるための口実にしか聞こえなかった。

 この広い屋敷の床の掃除は当然ながら一日ですむものではない。毎日違う部屋の違う床を拭いた。ある時は大理石を、ある時は畳を、そしてある時はセラミックの床を拭いた。屋敷の部屋数は多く、拭いても拭いても尽きることを知らなかった。

 床の掃除が終わると、夕食の支度が始まる。夕食にはご当主様が宴を催すことが多々あり、そのたびに使用人は忙殺された。夕食の支度が終わると床に入る。私はまだ子供なので、九時には床に就くことを許された。

 しかし、床についてもすぐには寝付けなかった。腰に鋭い痛みが走るのだ。床を拭くその姿勢が腰に負担をかけ、夜、苦痛に唸りながら眠りにつく。二時間で夢に入れればいい方で、酷いときはそのまま朝を迎える羽目になる。

 来てすぐの頃は家族を思って枕を濡らしたこともあった。しかし、それも三日もたてば止んだ。涙を流すくらいなら、その分体を休まねば体が持たない。睡眠という体の要求が、感情を殺いでいった。

 そんな生活が一年もたって機械的に使用人としての仕事をこなすようになった頃、私は屋敷の一室に呼び出された。その部屋は使用人はおろか、清末家の者でもごく一部の人間しか入ることを許されていない部屋だった。当然、私もこの部屋の床は拭いたことがなかった。

 部屋に入るとご当主様が上座に正座していた。ご当主様を目にしたことはあっても、口を交わしたことはなかった。

「涼乃鈴、御呼びにより参上仕りました」

 私はご当主様の正面に正座をして畏まり、額を畳につけんばかりに深々と頭を下げた。

「面を上げなさい」

 ご当主様は私の瞳の色を見つめ、暫く黙った後云った。肝が据わっていて宜しい、と。私はこの数秒間の沈黙に、後の人生を決める何かを感じとった。そしてそれは当たった。

「現時点をもって、貴女の清末家の使用人としての任を解きます。これから貴女は清末白専属の使用人となるのです」

 私は白という人間を知らなかったが、私が知らないということは、おそらく使用人の誰も知らないことなのだろう。使用人の唯一の楽しみは清末家の噂話であったから。

 

 ——私の知らない清末の名を持つ者は、私と同い年の少女だった

 

 ご当主様に連れられ、部屋に入ると、一人の少女がソファで横になっていた。その少女は白い布の目隠しをしていた。ご当主様の気配を感じると、ソファから起き上がろうとする。そのままでよい、とご当主様は少女を宥め、「白、今日から貴方に使用人をつけます。その不自由な体の代わりにこの娘を手足として使いなさい」と云った。私はその少女の前に正座し、畏まって頭を下げる。今日からお嬢様の使用人を務めさせていただく涼乃鈴です。

 声に反応はなかった。数秒もたつと私は我慢がならなくなって下げた頭を上げた。

 そこには私を見下ろす少女の貌があった。その少女の貌にはおよそ表情と呼べるものはなく。湖面のように凪いでいた。その貌を見て真っ先にユースティティアを想起した。かつて私が涼乃家にいたとき、父に連れられて行った事務所にそれはあった。ローマ神話の女神、ユースティティア。目隠しをし、右手に剣を、左手に天秤を持ち、正義と力を象徴する女神。しかし少女からは清さと高潔さを感じさせたものの、力とか、強さみたいなものは一切感じられなかった。儚く脆い、危うさを感じた。少女は暫くすると、コクっと深く首肯した。

 ご当主様の話では、ある大事な儀式を終えた後らしい、今は喋ることと見ることを禁じられているが、しばらくすればそれも解けるとのことだった。

 ただし彼女は足が不自由で、それが改善されるまでの間、面倒を見るのが私の役目となった。

 

 最初から大変だった。食事をすることはおろか、水を飲むこともできず、トイレに行くこともできなければ、一人で寝ることもままならない。言葉がしゃべれない彼女は、意思疎通すらまともにできないのだ。それはまるで大きな赤子だった。世話は想像を遥かに超える苦痛で、私は自分と同い年の人間がこれほど愚鈍で何もできないことに、強い憤りを感じた。

 生きていく為に私は、毎朝三時に起き九時まで働き、なお腰の痛みに苦しむ。三度の飯にありつられることなど滅多にない。だというのに彼女は何だ。一人で何もできない愚図であることはおろか、周りに頼るべく訴えることもしない。

 

 私はそんな彼女を見て、三日目にして彼女を虐めようと思い立った。私の虐めは簡単だ。何もしない、である。私は彼女のそばにジッとして様子を窺う。ソファに座っている彼女は暫くするとそわそわし始めた。目が見えない彼女は、周りに人の気配を感じなくなって怖くなったのだろうか。やがて傍らに在ったクッションを抱いて丸くなる。彼女は震えていた。孤独に怯えているのだろうと、この時の私は勝手に想像していた。しかし、実際は違った。彼女は尿意を我慢していたのだ。暫くすると案の定漏らしてしまった。ソファで受け止めきれなかった尿が床まで届いて滴り落ちる。それを見て私は、慌てて彼女に駆け寄り手を差し伸べた。

 彼女は泣いていた。私に気付くと彼女は〝ごめんなさい〟と声が出せない口で叫んだ。ただひたすら済まなさそうに、〝ごめんなさい、ごめんなさい、許して、ごめんなさい〟と何度も、何度も叫んでいた。その姿を見て私は、心に鋭い痛みを感じた。こんな不快感に苛まれるなら、最初からしなければよかったと思った。大丈夫ですお嬢様、落ち着いて下さいませ。と彼女に声をかけ、泣いている彼女の背中をさすった。何が大丈夫なのか、自分でもさっぱりわからなかった。

 暫くして彼女が落ち着くと、私は云った。今お着替えを用意してきますね。服は自分で脱げますか、と。すると彼女はビクッと体を強張らせた後、静かに頷いた。私は洗面所に行きタオルを、隣の部屋に行き彼女の服を取って戻ってきた。しかし彼女は服を脱いでいなかった。それを見た私は、そんな事も出来ないのかという苛立ちと諦めの思いで、「今お体をお拭きします。服は私が脱がせたほうがよろしいでしょうか」と云った。自分でも驚くほど乾いた声だった。彼女はまた、ビクッと体を硬直させた後、首を横に振った。彼女は自分で自分の体をギュッと抱いた後、おもむろに服を脱ぎ始めた。しかし彼女の所作は緩慢で、苛立ちを募らせた私は、彼女の服を脱がすのを手伝い始めた。この時も彼女は口で〝ごめんなさい〟を繰り返していた。

 

 彼女の服をすべて脱がして裸にしたとき、私は自らの愚かさを呪った。彼女は必至で自分の肩を抱いてごめんなさい、許して、嫌いにならないで、と声にならない口で叫んでいた。彼女の腹部には痛々しい縫い目が数十センチにわたって横たわっていた。それだけではない、彼女の体には見るもおぞましい、わけのわからない言語が体中にびっしりと書かれていた。彼女は見ないでと自らを抱き、羞恥に震え、泣いていた。そんな彼女を見て私は、ジッとしていてくださいお嬢様、今、お体をお拭きしますから、としか言えなかった。この時ばかりは自らの無能さを恨まざるを得なかった。

『清末家の跡取り、白の独白』

         ——私が人であることを許されなかったのはひとえに私の弱さにあった、と今になって思う

 私は清末家のただ一人の子だった。

 清末家は土地の権力者で、かつてはこの街のすべてが清末家の所有物だったほどだ。その当主として君臨しているお祖母様は、清末家において絶対であった。お祖母様が紫陽花は紅と云えば、紫陽花は紅に、朝顔は藍と云えば、朝顔は藍くなった。お祖母様男の子を3人ばかり産んだ。しかし、それぞれ病気と事故と戦争で死んでしまった。男を後継者として残せなかった自らを悔やみ、母に次こそは男児をと望んだ。しかし、生まれてきたのは女である私だった。

 清末家には代々異能の才を持つ男子が生まれた。その異能は強力で、世界の法則すら捻じ曲げてしまうらしい。しかし異能の才を持つ人はケガレに弱く、魔に憑かれやすかった。

 私が生まれたとき、お祖母様はそうとう落胆したそうだ。代々清末家は異能によって栄えてきた。その血統を自らの生きているうちに残せなかったことを罪科と感じたに違いない。しかし、しばらくしてお祖母様に転機が訪れる。そう、私は清末家の女でありながら、異能の才を色濃く受け継いだ清末家の血統を継ぐ人間だったのだ。

 私はその瞬間から、ケガレに触れず、魔に憑かれまいと、ありとあらゆる対策が講じられてきた。外で遊ぶことを禁じられ、人と会うことも許されなかった。怪我をすれば禊を、厄時が来れば儀礼を、異能を保持しながら高貴なヒトになるために。

 世のケガレには2種類ある。死のケガレと、血のケガレである。前者は人の死によって生まれる穢れである。人の死は強力な不浄を生み、魔を呼び寄せると古から神道では考えられてきた。これは時に黒不浄とも呼ばれる。後者は血液、月経、出産である。これは赤不浄と呼ばれることが多い。出産だけを白不浄とする呼び方もある。

 いずれにせよケガレとは、死と生、そして性である。

清末家に代々続く異能の才を持つ者、その全ては男である。女はただの一人もいない。異能の才を持った女性は齢十歳にしてみな死ぬ。その訳は単純だ。初潮を迎えた女性は、その経血によって穢れ、魔に憑かれて死ぬ。

 私は清末家の女性で、そして異能の才の保持者だった。私の人生は生まれた時からすでに決まっていた。齢十歳、初潮を迎えた日の夜、穢れた私は、魔に犯されて死ぬ。それが自然の摂理で、世の定めなのだ。しかし、お祖母様は、現代科学は、私の死を許さなかった。私から女性としての機能を剥奪し、私を延命させた。私は本来この時に死ぬべきヒトだったのだ。 

 私は、私の魂は、清末白という人間の肉体に鎖でつながれたまま、人形のように生きている。

 私は弱い人間だ。ケガレにおびえ、魔から逃れる。血を見れば昏倒し、外に出れば風邪をひく。誰からも愛されず。誰からも必要とされない。

 

 ——私はお嬢様の家族構成を、お嬢様の御世話をする僅かな間で理解してしまった

 

 それは決して私の察しが鋭いというわけではなく、それだけ如実に表れていたということだ。

 まず彼女の父親だ。お嬢様は自身の父親のことを、おそらく彼は私のことが嫌いなのでしょう、私に話しかけようともしてくれないと、悲しそうに語っていた。しかしそれは実際には違った。ただ単にあの男は弱い、それだけだったのであるから。

 彼女の父親は清末家に婿入りした人間であったから、清末家の中では塵のような存在だった。私は彼を一目見て、成る程お嬢様の弱さはこの人から受け継いだものなのか、と思った。彼はお嬢様に声をかけるでもなく、視界に入れないように、入らないように生活していた。なので私は彼がお嬢様と一緒にいるところを一度も見たことがない。

 では何故私が彼を知っているかというと、私が彼に呼び出されたからである。彼は私を呼び出して、こう云った。娘のことをよろしく頼む、と。私は、頼まれました、と答えた後、なぜ娘に会ってあげないのですか、と逆に質問した。本来下女である私が、彼に質問する権利など毛ほどもないが、彼は応えてくれた。「それはね、この家で私は弱い立場でね、私が彼女に会った事をご当主様に見られでもしたら、たいへん厄介なことになるんだ」と語った。彼は実に弱い男だった。それはこんな話を下女の私に漏らしてしまう時点で察せられるるであろう。私が今の話をご当主様に話さないとは、この男は考えないのだろうか。しかしこの男は、お嬢様を取り巻く者の中でまぎれもなく、まだましなほう、なのであった。

 お嬢様はご当主様であるお祖母様のことを命の恩人だと語っていた。私は本来十のときに死ぬはずだったのだと。私はそれが何を言っているのかわからなかったが、彼女の言葉や表情の端々からお祖母様に抱いている尊敬の念を感じ取った。彼女はお祖母様に強い感謝と憧れを抱いているようだった。一方でお祖母様は孫娘である彼女のことをどう思っているかと云えば、やはり、それも孫娘に対する扱いとして正しいものではなかった。お祖母様は彼女を、まるで宝石でも触れるかのように扱った。彼女と接するときは細心の注意を払い、気を使った。しかしその気遣いは彼女の精神面ではなく肉体面であった。

 

 お嬢様の周りにはお嬢様と同じ立場で語ろうとする者は誰一人としていなかった。いや、そもそもその語らい以前に、関係を断とうとしていた者もいた。それは彼女の母親であった。

 彼女の母親は一度しか会ったことがない。しかしそれだけでお嬢様との関係を理解できてしまった。それほどに彼女は強烈だったのだ。

 それはまだお嬢様が目隠しをしていた頃、彼女の母は来た。お嬢様は見るからに機嫌が良くなって。彼女は母に今日の天気は如何かとか、最近気温が高くなってきましたねとか、会話の苦手な彼女が、無い言葉を振り絞って必死に紡いでいた。そんな彼女を見れば誰にでもわかるだろう、彼女は子として母に愛されようと懸命に足掻いていたのだ。しかし、彼女の母親の反応は実に淡泊なものだった。今日は晴れよ、そうね。返す言葉は常に一言。やがてお嬢様の話す言葉も尻すぼみになっていく。

 そして何よりも決定的なものがあった。

 

 それは彼女の眼だ。まるで汚物でも見るような眼差しを、母は実の娘に向けていたのだった。私は両者のちょうど真ん中の位置で正座をして話を聞いていたが、あまりの痛々しさに顔をそむけて、ずっと絨毯の縫い目を数えていた。暫くして会話が途切れると、彼女の母はおもむろに云った。元気そうで何よりね、貴女が元気で私は安心したわ、と。私はその台詞を言った母親の表情を見て、反吐が出そうになった。

 そして何よりも残酷なことは、その言葉を聞いて恍惚とした表情を浮かべ、実に嬉しそうに、「はい、お母様」と答えるお嬢様の姿だった。

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